布沢棚田周辺の歴史と伝説

天女の羽衣伝説

布沢の衣かけ松(天女の里)

昔むかし、若くてきれいな弁天様は暖かな春の日に、 羽衣に着飾って遠く京の都から、赤や黄、白い花に咲き 乱れた白猪森にふんわりと降りたちました。

足元のわらびを見つけ、夢中で摘み取っているうちにト ゲで指を切ってしまい、みるみる白い肌の手が赤く染 まってしまいました。

怒りがおさまらない弁天様が西の方へ飛び立っていくと 樹々の芽が美しく口を開き、弁天様に声をかけるような きれいな水がこんこんと湧き出でいました。

布沢の鳥井戸でした。そのきれいな湧水で手を洗うと不 思議と痛みも出血も止まってもとの美しい手になったと 云います。

ところが井戸の脇の泥に足を滑らしてしまい、羽衣や薄絹や飾り物、果ては下着まで泥 だらけになってしまいました。「なんて運が悪いんでしょう。」と泣くに泣けずに気を落 としていましたが沢の下に小さな池がありました。弁天様は着物を着たままきれいな池 の中に入り、丁寧に一枚ずつ衣を脱いで洗い、しまいには一糸まとわぬ丸裸の姿になって いました。こんなところを誰かに見られたら大変。弁天様は小高い山の枝ぶりの良い 傘松を見つけ、その松に衣を干しました。裸ですから恥ずかしさをこらえて松の根元に 隠れて乾くのを待っていました。

その時です。薪を背負い、口笛を吹きながら愛宕山の方から下がってくる若者がきまし た。雅な音楽が静かに流れ、かぐわしい香りに包まれた若者は立ち止まり、ひらひら風 にはためく天女の衣をみつけました。

「ああ、なんて不思議で美しい薄絹の衣だろう。そうだ。母親に見せてあげよう。どん なに喜ぶだろう。」と松の枝から静かに取り外すと、

「それはなりませぬ。私のものです。天女の羽衣なのです。」と、身を隠しながら思わず 声をあげました。裸であることにはっとして立つことも出来ず、さめざめと泣くばかり でした。さすがの若者も可哀そうになって言いました。

『あなたがまことの天女なら舞いを見せてください。」弁天様は何回も何回もお礼をして から衣を着飾って地上から舞い上がりました。すると満天の虹がかかり、野山はまばゆい 七色の輝きとなりました。

やがて霧のなかを遠く木幡の弁天山に消えたということです。

羽衣の天女が舞う里から布沢と云われています。

(あだち野のむかし物語より引用)

義民 布沢源蔵

源蔵は江戸時代天明の大飢饉の際の、この地域の農民のリーダーでした。農民はただでさえ貧しく、年貢=租税の徴収に苦しみ、自分達の食べるものがない時代。そこに天明の大飢饉が襲います。岩木山と浅間山が1年の間にそれぞれ噴火を起こし、火山灰による冷夏の影響で稲が実らず、年貢を納めたら死ぬしかない、という危機。源蔵は一念発起して二本松藩の藩主へ直訴。年貢の取り立てを緩和してほしい、と。殿様は了承したものの、側近たちの「布沢を了承したら他の地区に示しがつかない」として、訴えを却下。源蔵は直訴の責を負って切腹。その死を悼んで未来へ残す碑を建てたということです。

橋本子守地蔵

天明の飢饉で、子どもが次々と命を落とし、集落が危機に陥りました。村人たちはその様子を憂いて、子どもたちの無事の成長を祈念した地蔵尊六体です。今も地蔵を守る家々の仏壇には、木で掘られた小さな子どもの身代を据え、拝んでいます。また、この場所は、地域で集まって花見をする祝いの場であり、農作業に勤しむ祖父母の視界に孫が収まりつつ安心して遊べる憩いの場でした。今もこの地域で赤ちゃんが生まれると、このお地蔵さんに手作りの前掛け(今でいうスタイ)と頭巾を縫って身につけて差し上げます。今は大きなお像も仲間入りし、布沢地区を見守っています。

忠魂碑(勝海舟の書)

大田村から出た戦没者を供養する石碑です。勝海舟の手による書で「忠魂碑」と彫られています。日清、日露、大東亜の戦時には、この村からも若い男が戦争へと駆り出されました。今もこの忠魂碑の前で、戦争で亡くなった我が子や戦友を悼む人もいらっしゃるとのことです。